食のハレとケ

食語の心 第140回 柏井 壽

食語の心 第140回 柏井 壽

食に限ったことではなく、世のなかの二極化が進んでいる。たとえば季節。かつては平等に四季が存在していたが、年を追うごとに春と秋の期間が少なくなり、ほとんど夏と冬ばかりになってしまった。

冷房が要らなくなったと思えば、ほどなくして暖房が必要になる。四季ではなく、二季と言ってもいいほどだ。あるいはファッションの世界もしかりで、本誌に登場するような超高額の腕時計もあれば、こんな価格でいいのだろうかと思うようなファストファッションが混在している。

SNSの投稿に対するコメントもおなじような傾向があって、激しく賛否が分かれている。それは口コミのグルメサイトも同様で、店に対して絶賛する書き込みがあれば、おなじ店とは思えないほど酷評する書き込みも少なくない。いったいどちらが真実に近いのか、戸惑うこともしばしばだ。

真ん中の、ほどのいいところが少なくなってきたのはなぜなのかと考えて、教育に行き当たった。かつては「標準」に入ることを良しとしてきたが、近年は個性重視という名目のもと「標準」を求めなくなってきたようだ。現役の教師から聞いた話なので、おおむねその傾向があるのだろう。

とあるうなぎ屋の主人から聞いた話も興味深いものだった。「むかしは松竹梅のランクがあったら、たいていのお客さんは竹を注文しはりましたけど、最近は松と梅が多うて、竹がめっきり減りました」。ぼくも竹派だったが、それが無難だと思っていたからだろうと思う。

過ぎたるを避けおよばざるから逃れるとなると、自然と真ん中に落ち着くのが日本人的なのだ。それが普通だと思ってきたが、どうやらその「普通」を嫌う世のなかになってきたようである。

もっともこれをハレとケの使い分けだと思えば、それもまた日本人的と言えるのではあるが。今日はハレの日だから松、ケの日だから梅、なら理解できる。ハレとケはしかし、どちらも節度というものがあって、極端に過ぎると眉をひそめる結果を生んでしまう。

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真のラグジュアリーとは何か

真のラグジュアリーとは何か

ラグジュアリーの定義が、音を立てて変わりゆく時代にあっても、最高峰のプロダクトを手にし、その圧倒的な美しさに触れる高揚感が、人生を鮮やかに彩る原動力であることを、私たちは知っています。
物質的な豊かさが、依然として私たちの精神を支える強靭な基盤であることに、言を俟ちません。
真の贅沢はそこから始まります。
アルゴリズムが弾き出す「正解」を疑い、自らの審美眼と直感で未踏の価値を切り拓く。
その「知的冒険」こそが、グローバリズム崩壊後の世界に残された、最後のラグジュアリーではないかと考えます。
Nile's NILE Digitalは、物質と精神、伝統と革新、都市の快楽と野生の回復――この相反する要素を「アンビバレンス」として愉しむ、選ばれた冒険者たちのためのプラットフォーム。
混沌を優雅にサバイブするための視座と、本物の体験へのアクセス権。
ここはまさにDesigning for the Exceptionalsの砦。
知的冒険者たちが集い、次なる航路を描くための、現代の港となります。

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