「完全なる個人」という幻想と我が国企業社会

時代を読む 第134回 原田武夫

時代を読む 第134回 原田武夫

代を読む――原田武夫 第134回、「完全なる個人」という幻想と我が国企業社会

最近、頭を悩ませていることがある。それは我が国労働法令で言うところの「管理監督者」についてである。

いきなり、の課題提示に読者の皆様は少々面食らってしまったかもしれない。しかし、このように言われて、経営者である読者の皆様は恐らく「あぁ、あの問題ね」と至極納得されていらっしゃるのかもしれないとも思う。結論を先に言うならば、この「管理監督者」という立場の就労者について、我が国の立法・行政・司法の当局者があまりにも「お花畑的発想」にとらわれているがゆえに、我が国の企業社会、とりわけスタートアップを中心とした企業社会は大混乱に陥っていると思えてならないのである。

企業、すなわち「会社」には大別して2種類の人々が属している。すなわち一方では経営者であり、他方では労働者である。厳密に言うなれば経営者といっても株主であるかどうかによって大きくその立場は異なるわけであるが、ここでは話が複雑になるのでこの点についてあえて踏み込まないことにする。そして「経営者」とは一般に雇う側であり、これに対して「労働者」とは雇われる側を意味すると解されている。「何を今さら、そんなことは常識ではないか」と思われるかもしれない。そう短絡的に思うことなかれ、と筆者からは申し上げておきたい。実は我が国労働法制上、これら二つの概念の間には実はもう一つの術語が入り込んでいる。それが本稿で問題として掲げたい「管理監督者」である。

平たく言えば、「管理職」であり、あるいは「ミドルマネジャー」と言ってもよいかもしれない。そしてこれまた一般にこうした立場にある者は平社員とは違う扱いを受けており、だからこそ残業代は支払われないなど、いくつかの区別がされていることもよく知られている。―そう、このように話が単純であれば何も問題はないのだ。しかし、実際には違う。「管理監督者」は経営と一体であるとまずは解釈されている。そして経営と一体だからこそ、自由に出勤時間を決めてよく、またどこで働くのか、就労場所についても自分で判断してよいというわけなのである。さらに驚くべきことに、会社にとって虎の子の財務諸表や経営資料などは当然丸々閲覧する権利があり、それだけではなく、経営そのものに実質的に口を挟んでもよいとされている。そしてもっとすごいことに、自分で労働時間を差配してよいのであるから、残業はし放題であり、しかもこれを届け出などしなくてよく、あとは事後的に残業代の支払い請求をすればよいとされているのである。

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真のラグジュアリーとは何か

真のラグジュアリーとは何か

ラグジュアリーの定義が、音を立てて変わりゆく時代にあっても、最高峰のプロダクトを手にし、その圧倒的な美しさに触れる高揚感が、人生を鮮やかに彩る原動力であることを、私たちは知っています。
物質的な豊かさが、依然として私たちの精神を支える強靭な基盤であることに、言を俟ちません。
真の贅沢はそこから始まります。
アルゴリズムが弾き出す「正解」を疑い、自らの審美眼と直感で未踏の価値を切り拓く。
その「知的冒険」こそが、グローバリズム崩壊後の世界に残された、最後のラグジュアリーではないかと考えます。
Nile's NILE Digitalは、物質と精神、伝統と革新、都市の快楽と野生の回復――この相反する要素を「アンビバレンス」として愉しむ、選ばれた冒険者たちのためのプラットフォーム。
混沌を優雅にサバイブするための視座と、本物の体験へのアクセス権。
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