食語の洪水

食語の心 第131回 柏井 壽

食語の心 第131回 柏井 壽

食語の心 第131回、柏井 壽、食語の洪水

コロナ禍を経て、以前に比べて在宅時間が長くなったせいもあって、テレビを見る時間がいくらか増えた。

目に付くのは食にまつわる番組で、大食いを競ったり、コンビニやチェーン店の食を評価したり、あるいは地方の食を発掘したり、などだが、その多くに登場するのが食べる場面である。

そしてそういう場面に付きものなのが、いわゆる食レポというやつで、料理に対する感想を述べる仕儀となるのだが、気になる言葉がますます増えてきたように思う。この手の場面独特の食語だ。

「それではこれから食してみたいと思います」
レポーターがカメラに向かってそう言う。以前にもこのコラムで書いたが、なぜ「食べる」と言わず、「食す」という言葉を使うかと言えば、空腹を満たすためではなく、試食だという意を伝えたいからで、食べるプロだと言いたいからだろうが、どうにも違和感がある。

以前はこういう場面で、「実食」という言葉を使っていたが、誤用だと気付いたのか、最近では使わなくなった。

どこが誤用だったかと言えば、「実食」を辞書で引くと「(新発売の食品や、評判の、また有名店の料理などを)料・金・を・払・っ・て・実際に食べること」とあり、番組のレポーターは料金を払っていないから、「実食」と言わなくなったのだ。

「塩味(えんみ)がきいていてとてもおいしい」
という言葉遣いも、どうやら食レポのはやりらしいが、なぜ「しおあじ」と言わず「えんみ」という言い方をするのかと言えば、これも「食す」とおなじで、食べるプロを装いたいからである。

「しおあじがよくきいておいしい」というのがふつうの日本語だ。それが証拠にワードなどで「しおあじ」と打てば、ちゃんと「塩味」と変換されるが、「えんみ」と打っても「塩味」とは変換されず、「延味」だとか「遠見」なんていう候補しか出てこない。
そのうち「甘み」も「かんみ」などと言い出すかもしれない。

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真のラグジュアリーとは何か

真のラグジュアリーとは何か

ラグジュアリーの定義が、音を立てて変わりゆく時代にあっても、最高峰のプロダクトを手にし、その圧倒的な美しさに触れる高揚感が、人生を鮮やかに彩る原動力であることを、私たちは知っています。
物質的な豊かさが、依然として私たちの精神を支える強靭な基盤であることに、言を俟ちません。
真の贅沢はそこから始まります。
アルゴリズムが弾き出す「正解」を疑い、自らの審美眼と直感で未踏の価値を切り拓く。
その「知的冒険」こそが、グローバリズム崩壊後の世界に残された、最後のラグジュアリーではないかと考えます。
Nile's NILE Digitalは、物質と精神、伝統と革新、都市の快楽と野生の回復――この相反する要素を「アンビバレンス」として愉しむ、選ばれた冒険者たちのためのプラットフォーム。
混沌を優雅にサバイブするための視座と、本物の体験へのアクセス権。
ここはまさにDesigning for the Exceptionalsの砦。
知的冒険者たちが集い、次なる航路を描くための、現代の港となります。

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