おいしいということ

食語の心 第129回 柏井 壽

食語の心 第129回 柏井 壽

食語の心 第129回、柏井壽、おいしいということ

食を表現するのに、「おいしい」という言葉は不可欠であり、すべてに優先するものだと思っていた。もちろん人によって、おいしさの基準は異なるだろうし、Aという人が「おいしい」と思うものを、Bという人がおいしくない、と思うのはままあることだ。ではあるが、AもBも、その食に価値があるかどうかを判断するのに、「おいしい」という言葉を使うのはおなじである。

古くは女性だけが使う言葉だったようで、男性はもっぱら「うまい」を使ったようだが、その意はおなじである。「おいしい」という日本語は万人共通で、食べるという行為において、好むか好まないか、の判断基準になるべき言葉だと思ってきたのだが、それはさして重要ではない、という考え方を述べる美食家がいて、驚きを禁じ得なかった。

人はなぜ食べるかと言えば、それは生きるためであって、生命を維持するために食べるのである。そしてどうせ食べるなら「おいしい」方がいい、となった。生きるためだからといって、まずいものを食べるのはつらい。そこで人類はおいしさを追求し始めたのだ。

有史以来、人類の寿命が延びてきたのは、もちろん医学の発達などの要因もあるだろうが、「おいしい」食が増えてきたこともその一因だと思っている。たとえ本能に基づく欲求だとしても、「おいしい」という要素が加わることによって多幸感が得られ、進んで食べるようになったのだ。

その「おいしい」を軽視する美食家の言では、「食の価値において、おいしいかどうかは大した問題ではない。選び抜かれた食材で、優れた料理人の手によって作られた料理でなければ価値はないに等しい」となるのである。

美食ブームはとうとうここまできてしまったのかと、感慨さえ覚えてしまう。何年か前からその予兆はあった。このコラムでも再三指摘してきたが、食に対する過剰なほどの知識を食べる側が競いはじめたことが、今日の知識偏重につながっているのは間違いない。

はじまりは食材だった。たとえば肉。かつてはせいぜい産地やランクくらいだったのが、いつしか熟成期間だとか、温度管理、ついにはそれを扱う精肉商の「手当て」うんぬんまで言及するようになった。

あるいは魚介。ここでもまた、カリスマと呼ばれる鮮魚商への過剰なまでの賛美。テレビまでもがプロフェッショナルの極致として絶賛するのだから、いつの間にか神格化されても当然なのだろう。

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真のラグジュアリーとは何か

真のラグジュアリーとは何か

ラグジュアリーの定義が、音を立てて変わりゆく時代にあっても、最高峰のプロダクトを手にし、その圧倒的な美しさに触れる高揚感が、人生を鮮やかに彩る原動力であることを、私たちは知っています。
物質的な豊かさが、依然として私たちの精神を支える強靭な基盤であることに、言を俟ちません。
真の贅沢はそこから始まります。
アルゴリズムが弾き出す「正解」を疑い、自らの審美眼と直感で未踏の価値を切り拓く。
その「知的冒険」こそが、グローバリズム崩壊後の世界に残された、最後のラグジュアリーではないかと考えます。
Nile's NILE Digitalは、物質と精神、伝統と革新、都市の快楽と野生の回復――この相反する要素を「アンビバレンス」として愉しむ、選ばれた冒険者たちのためのプラットフォーム。
混沌を優雅にサバイブするための視座と、本物の体験へのアクセス権。
ここはまさにDesigning for the Exceptionalsの砦。
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