贅沢のゆくえ

食語の心 第126回 柏井 壽

食語の心 第126回 柏井 壽

食語の心、第126回、柏井 壽

長くコロナ禍で抑圧されていたせいか、最近の日本では贅沢という言葉がちまたにあふれている。

GW恒例ともなったデパートの催事、北海道展の広告などがその典型だろう。「貴重な北海道産の甘エビを、贅沢に18匹も載せた贅沢甘エビ丼」「150gもの黒毛和牛を特製ダレで焼き上げた贅沢和牛丼」「ウニやイクラ、本マグロ、道産サーモンをふんだんに使った贅沢寿司」「ガーナ産のカカオを80%も使った贅沢な生チョコケーキ」

ざっと見まわしただけでも、ほぼすべてのコピーに贅沢という言葉が使われていることに驚くばかりだが、よく見てみると、ある共通点に気付いた。贅沢という言葉を、量的な多さという意で使っているようなのだ。

冒頭の甘エビ丼などがその典型だが、写真を見るとそこそこの大きさの甘エビが丼の表面を埋め尽くしているから、18匹使った丼というのは、たしかに半端な量ではないのだろう。他もおなじく、つまりは希少な食材をボリューミーに盛ったものを、贅沢と呼んでいるようだ。

そもそも贅沢というのはどういう意味なのか。あらためて辞書を引いてみると、「普通以上に金銭などを費して物ごとを行なうこと。また、必要以上のことをあれこれと望むこと。また、そのさま」と、日本国語大辞典にある。

他の辞書でも「必要な程度をこえて、物事に金銭や物などを使うこと。金銭や物などを惜しまないこと。また、そのさま」と似たような記述だが、いずれにせよ、決して賞賛の言葉ではなく、むしろ戒めの意が強い解釈になっている。つまり贅沢は、誉め言葉ではないのだ。

しかしながら、これらの宣伝文句は明らかに、賛美の意で贅沢という言葉を使っている。

その違いはどこから生じたのだろうか。

少しばかりうがった見方かもしれないが、先の戦争中に「ぜいたくは敵だ!」というフレーズが喧伝され、戦後になってこの言葉が好戦的と解釈され、忌避されたからではないかと思う。

かくして、贅沢は平和の象徴という意で使われるようになった、というのがぼくの見方だ。

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真のラグジュアリーとは何か

真のラグジュアリーとは何か

ラグジュアリーの定義が、音を立てて変わりゆく時代にあっても、最高峰のプロダクトを手にし、その圧倒的な美しさに触れる高揚感が、人生を鮮やかに彩る原動力であることを、私たちは知っています。
物質的な豊かさが、依然として私たちの精神を支える強靭な基盤であることに、言を俟ちません。
真の贅沢はそこから始まります。
アルゴリズムが弾き出す「正解」を疑い、自らの審美眼と直感で未踏の価値を切り拓く。
その「知的冒険」こそが、グローバリズム崩壊後の世界に残された、最後のラグジュアリーではないかと考えます。
Nile's NILE Digitalは、物質と精神、伝統と革新、都市の快楽と野生の回復――この相反する要素を「アンビバレンス」として愉しむ、選ばれた冒険者たちのためのプラットフォーム。
混沌を優雅にサバイブするための視座と、本物の体験へのアクセス権。
ここはまさにDesigning for the Exceptionalsの砦。
知的冒険者たちが集い、次なる航路を描くための、現代の港となります。

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