令和の食はどこへ向かうのか

食語の心 第122回 柏井 壽

食語の心 第122回 柏井 壽

はなからその店をひいきにしようなどとはからきし思っていない。話題の店を順に食べ歩き、SNSに投稿して注目されたいだけなのだから。

デジタル化が進み、AIまで登場して人間臭さがなくなってしまった令和に比べて、愚直なまでに人の手に頼る昭和が新鮮に映るのだろうが、それを一時のブームに終わらせてしまうのは、なんとも哀しい。「町中華」に注目するのなら、「こだわり」がなければ美味を生みだせないと思いこんでいる、偏った美食ブームに疑問を呈するぐらいの勢いが欲しいのだが、流れは変わることなく続き、古き良き食べものにまで、こだわりを求める風潮が目に付く。

時ならぬおにぎりブームにもそのにおいが漂っている。

どこそこ産の米を何時間浸漬して、特注の羽釜で何分間炊いて、何分間蒸らして、具材はこうでああで、などと講釈し、客の目の前でにぎって見せる店のおにぎりを求めて長い行列ができる。

昭和を象徴し、簡素な食の代表とも言えるおにぎりまでもが、こだわりという極彩色に染まってしまう。

もうひとつ例をあげてみよう。 近年の京都人気割かっ烹ぽうで、くどいほど耳にするのが「出だ汁し」。カウンターの客の前で出汁昆布を見せ、削り器を使ってかつお節を削って見せる。これらはかつて舞台裏で行っていた、ある意味陰でする仕事をオープンにし、下ごしらえからこだわっている、と主張するのである。

おにぎりを握ったこともなく、コンビニのおにぎりしか知らないひとにとって、専門店のパフォーマンスはマジックにも似た驚きを与えるだろうし、出汁の素しか使ったことがなければ、立派な昆布もかつお節削りも、魔法に見えて当然だろう。

素朴なおにぎりも、かつお節削りも、ある意味では原点回帰でもあるが、少なからず演出過剰でもある。言い換えれば厚化粧だ。

舞台に裏方や黒子が欠かせない存在であるのとおなじで、出汁もおにぎりも日本料理にとっては不可欠なバイプレイヤーである。

しかしながら、その存在は目立たず、陰で支えているからこそ、いぶし銀のような光を放つのだ。舞台の真ん中でスポットライトを浴びせるのは、無粋としか思えない。

ひっそりと、地道に長く続けてきた中華料理店に「町中華」という衣装を着せて華美に賞賛することも、おにぎりに「こだわり」という調味料を加えて持てはやすことも、裏方である出汁を表舞台に引っ張り上げて、過剰な演技を強いることも、すべて根っこはおなじ。

営々と続けてきた当たり前のことを、大げさにはやしたて、ブームを作りあげて耳目を集めようとするのが令和のもくろみ。陰の存在だからこそ、地道な仕事が光るということを忘れてはならない。

柏井壽 かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。

※『Nile’s NILE』2024年2月号に掲載した記事をWEB用に編集し、掲載しています

1 2
真のラグジュアリーとは何か

真のラグジュアリーとは何か

ラグジュアリーの定義が、音を立てて変わりゆく時代にあっても、最高峰のプロダクトを手にし、その圧倒的な美しさに触れる高揚感が、人生を鮮やかに彩る原動力であることを、私たちは知っています。
物質的な豊かさが、依然として私たちの精神を支える強靭な基盤であることに、言を俟ちません。
真の贅沢はそこから始まります。
アルゴリズムが弾き出す「正解」を疑い、自らの審美眼と直感で未踏の価値を切り拓く。
その「知的冒険」こそが、グローバリズム崩壊後の世界に残された、最後のラグジュアリーではないかと考えます。
Nile's NILE Digitalは、物質と精神、伝統と革新、都市の快楽と野生の回復――この相反する要素を「アンビバレンス」として愉しむ、選ばれた冒険者たちのためのプラットフォーム。
混沌を優雅にサバイブするための視座と、本物の体験へのアクセス権。
ここはまさにDesigning for the Exceptionalsの砦。
知的冒険者たちが集い、次なる航路を描くための、現代の港となります。

NILE'S MEMBERS

新規メンバー募集開始

選ばれたひと、こと、もの情報
「LUXE LIFE STYLE」をともに過ごす新会員を募集します。

*会費等一切かかりません(無料)